科学的でないということ4
2005年10月21日 思考実験考えを整理すると、単に超科学的ななにかが存在するかどうかは不可知で、宗教的な意味での神は、反証できないけど、客観性、妥当性に欠けるということになる。
しかし、客観性、妥当性といった科学のテーゼを宗教などに適用するのがそもそもの間違いなのかもしれない。
69はたぶん科学の「信者」です。
しかし、客観性、妥当性といった科学のテーゼを宗教などに適用するのがそもそもの間違いなのかもしれない。
69はたぶん科学の「信者」です。
科学的でないということ3
2005年10月19日 思考実験なんだか自分で書いててよくわからなくなってきた。
そもそも科学で超科学を仮定するというのが矛盾のような気がする。そもそも自分の考える超科学は特殊のような気がする。なんか前に書いた日記と矛盾するような気がする。(この日記に書かれていることは、あくまでも思いつくままに書かれた思考実験です。)
そもそも科学で超科学を仮定するというのが矛盾のような気がする。そもそも自分の考える超科学は特殊のような気がする。なんか前に書いた日記と矛盾するような気がする。(この日記に書かれていることは、あくまでも思いつくままに書かれた思考実験です。)
科学的でないということ2
2005年10月19日 思考実験前のやつへの反論として、「科学はうまく世の中を説明している。だから科学の仮定を証明することはできなくとも、仮定を受け入れることは妥当である。」というのが考えられる。
これは全く正しい。というか、あらゆる科学はこの考えの下に存在すると思う。少なくとも現在までの経験からいって、その仮定は最良であり、客観性がある。
しかし、こと超科学的なものは存在しないという仮定については事情が異なる。なぜなら、超科学的なものの存在を仮定したとしても、既存の論理体系になんら影響を与えないはずだからだ。
超科学的であるということは、科学の範疇に全く足跡を残さないということを意味する。超科学は科学から独立している。たとえ、お空の上から神様が我々を暖かく見守っていたとしても、科学としてはどっちでもいい。
逆に言うと超科学が(どういうわけか)科学の範疇に事実として影響を与えているとかいう人がいたら、そのインチキ(あるいは事実?)は証明可能である。あくまでも科学の範疇でだけど。少なくともそのインチキに客観性と妥当性はない。
これは全く正しい。というか、あらゆる科学はこの考えの下に存在すると思う。少なくとも現在までの経験からいって、その仮定は最良であり、客観性がある。
しかし、こと超科学的なものは存在しないという仮定については事情が異なる。なぜなら、超科学的なものの存在を仮定したとしても、既存の論理体系になんら影響を与えないはずだからだ。
超科学的であるということは、科学の範疇に全く足跡を残さないということを意味する。超科学は科学から独立している。たとえ、お空の上から神様が我々を暖かく見守っていたとしても、科学としてはどっちでもいい。
逆に言うと超科学が(どういうわけか)科学の範疇に事実として影響を与えているとかいう人がいたら、そのインチキ(あるいは事実?)は証明可能である。あくまでも科学の範疇でだけど。少なくともそのインチキに客観性と妥当性はない。
科学的でないということ
2005年10月19日 思考実験前に、「神を科学的でないと考えるのは間違い」と書いたけど、これはまずい書き方だったと思う。
科学は基本的に事実に基づくので、神とかいった超科学的なものを仮定していない。ゆえに超科学的なものの存在を証明しないが、不在を証明することもない。科学を根拠に神は存在しないと言うことは、科学の仮定=結論と言っている点で論理的でないと言え、神を盲信する人となんら変わりない。
科学は基本的に事実に基づくので、神とかいった超科学的なものを仮定していない。ゆえに超科学的なものの存在を証明しないが、不在を証明することもない。科学を根拠に神は存在しないと言うことは、科学の仮定=結論と言っている点で論理的でないと言え、神を盲信する人となんら変わりない。
「悪」のファッション性
2005年10月16日 思考実験仮定1:「ヤンキー」=『悪』であることにファッション性を見出す人々の総称。
仮定2:「悪」=反大衆的であること。多数派にとって否定されるべきこと。ここでは相対的観念として考える。
仮定2より「悪」のファッション性はありえない。
よって「ヤンきー」の存在について
1『悪』は「悪」ではない。『悪』は大衆的な観念である。
or
2そもそも「ヤンキー」はださい。(ファッション性を感じているのは自分だけ)
or
3もはや「ヤンキー」は1つの独立した思想集団である。(「ヤンキー」集団にとって『悪』は大衆的で善だが、人間にとっては反大衆的)
ということがいえる。
仮定2:「悪」=反大衆的であること。多数派にとって否定されるべきこと。ここでは相対的観念として考える。
仮定2より「悪」のファッション性はありえない。
よって「ヤンきー」の存在について
1『悪』は「悪」ではない。『悪』は大衆的な観念である。
or
2そもそも「ヤンキー」はださい。(ファッション性を感じているのは自分だけ)
or
3もはや「ヤンキー」は1つの独立した思想集団である。(「ヤンキー」集団にとって『悪』は大衆的で善だが、人間にとっては反大衆的)
ということがいえる。
座右の銘はいらないけどやっぱいる
2005年10月15日 思考実験http://kuniph.exblog.jp/1974983/
座右の銘「常に自分の心にとめておいて、戒めや励ましとする格言。座左の銘。」・・・goo辞書
仮定1:格言とは、1つのものの見方であって普遍的に言える真理ではない。ex.継続は力←→諦めが肝心
仮定2:座右の銘は、常に自分の心にとめておかなければならないので、適用範囲が広く、普遍性の高いものが望ましい。
仮定1、仮定2より、座右の銘はいらない。敢えて言うなら「世の中そんなに単純じゃない。」と考えていたんですが、リンク先の人は頭いいですね。「学んで思わざれば罔し.思って学ばざれば殆うし」と二つの対立する格言をセットにしてます。これはええわ。いただきます。
座右の銘「常に自分の心にとめておいて、戒めや励ましとする格言。座左の銘。」・・・goo辞書
仮定1:格言とは、1つのものの見方であって普遍的に言える真理ではない。ex.継続は力←→諦めが肝心
仮定2:座右の銘は、常に自分の心にとめておかなければならないので、適用範囲が広く、普遍性の高いものが望ましい。
仮定1、仮定2より、座右の銘はいらない。敢えて言うなら「世の中そんなに単純じゃない。」と考えていたんですが、リンク先の人は頭いいですね。「学んで思わざれば罔し.思って学ばざれば殆うし」と二つの対立する格言をセットにしてます。これはええわ。いただきます。
島津忠良は超天才なんじゃないかと思えてきた。
島津忠良は戦国時代、分家である伊作島津家の出身ながら嫡男を宗家の跡継ぎにしたらしい。そこまでなら普通の名君だけど…
仮定:戦国時代、家の存亡は跡継ぎの器量のみに依存する。
この仮定の下では、基本的には、家が繁栄するか否かは、偶然となる。たまたま、織田信長みたいな天才が当主となれば繁栄し、たまたま、織田信孝とか織田信雄みたいに跡継ぎに恵まれなければ、衰退する。(結果を出せば名将と言われ、出さなければ凡将と言われるという考えはしない)
島津忠良は跡継ぎに恵まれまくりで、島津家は忠良死後も繁栄する。ただ、忠良にとって跡継ぎに恵まれまくったこと、自分の死後にも島津家が繁栄したことは、偶然でなく、必然だったように思える。根拠は、家訓の「いろは歌」を遺したこと。これによって、自分の死後も勝手に名君が量産されるようなシステムが出来上がったのではないかと思う。想像だけど。
たぶん、君主政治は君主の器量に大きく依存するため、天才が君主となれば、短期的には最高の結果を残せるが、長期的には天才君主は続かないので崩壊するのだと思う。
君主政治を長続きさせる方法は
・暗君になっても安心な制度を確立すること。(徳川家康)
・名君を生み出し続けること。(島津忠良)
だと思う。
島津忠良は戦国時代、分家である伊作島津家の出身ながら嫡男を宗家の跡継ぎにしたらしい。そこまでなら普通の名君だけど…
仮定:戦国時代、家の存亡は跡継ぎの器量のみに依存する。
この仮定の下では、基本的には、家が繁栄するか否かは、偶然となる。たまたま、織田信長みたいな天才が当主となれば繁栄し、たまたま、織田信孝とか織田信雄みたいに跡継ぎに恵まれなければ、衰退する。(結果を出せば名将と言われ、出さなければ凡将と言われるという考えはしない)
島津忠良は跡継ぎに恵まれまくりで、島津家は忠良死後も繁栄する。ただ、忠良にとって跡継ぎに恵まれまくったこと、自分の死後にも島津家が繁栄したことは、偶然でなく、必然だったように思える。根拠は、家訓の「いろは歌」を遺したこと。これによって、自分の死後も勝手に名君が量産されるようなシステムが出来上がったのではないかと思う。想像だけど。
たぶん、君主政治は君主の器量に大きく依存するため、天才が君主となれば、短期的には最高の結果を残せるが、長期的には天才君主は続かないので崩壊するのだと思う。
君主政治を長続きさせる方法は
・暗君になっても安心な制度を確立すること。(徳川家康)
・名君を生み出し続けること。(島津忠良)
だと思う。
なぜ人は人を殺してはいけないのか
2005年10月5日 思考実験最初に断っておきますが、私は殺人を応援してはいません。
定義:「メリット」
物事の価値を自己の基準に照らし合わせ、
総合的に判断して得であること。
定義:「倫理」
一般的価値基準に基づき作られた道理。
あるいは、人間は全て同じ価値基準を持つという楽観的仮定から生まれた道理。本当の倫理の定義は知らない。
仮定:人間は自分にとって「メリット」を最大化していると判断した行動をとる。自己犠牲の行動も「メリット」があると判断した結果だと考える。
証明:
命題・人は人を殺してはいけない
「してはいけない」「すべきではない」が義務の意味を指すと考えると「倫理」の概念だから証明不能。
だから、「人間は「倫理」に従わなければならない」
という仮定を設ければ、
仮定=結論なので、馬鹿馬鹿しいけど証明可能。
適当の意味を指す場合、仮定より、人間の行動は自己の価値基準
で決まる「メリット」に拠るので証明不能。(人を殺す行動を「メリット」最大化と判断した者について説明できない。)
おわり
繰り返し断っておきますが、私は殺人を応援してはいません。
なぜ人は人を殺してはいけないのか
という問いについての回答は、大体二つに分かれると思う。
・「倫理」に反するから
「人として許されない」「他人の人権を踏みにじる」など
・損をするから
「刑務所に入りたくない」「殺したくない」など
どっちも一般的価値基準を持たないものについては説明できない。「倫理」を持たない変態は死ねと言うと、マイノリティは死ねということになり、それはそれで「倫理」に反する。「倫理」の自己矛盾。(定義だけから考えると矛盾はしないが、「マイノリティは淘汰されるべきだと思いますか?」と100人に聞いたら、ほとんどの人は(うわべだけでも)NOと答えるはず。)
もし、吉良吉影みたいに殺人にセックス並の快感を覚える奴がいたら(迷惑だから死んで欲しいけど)そんな性質に生まれついてしまったという点では同情できる。
しかし、主観だけど、ほとんどの現実の殺人者は「メリット」最大化の計算ができない単なる馬鹿だと思う。
最後に断っておきますが、私は殺人を応援してはいません。
定義:「メリット」
物事の価値を自己の基準に照らし合わせ、
総合的に判断して得であること。
定義:「倫理」
一般的価値基準に基づき作られた道理。
あるいは、人間は全て同じ価値基準を持つという楽観的仮定から生まれた道理。本当の倫理の定義は知らない。
仮定:人間は自分にとって「メリット」を最大化していると判断した行動をとる。自己犠牲の行動も「メリット」があると判断した結果だと考える。
証明:
命題・人は人を殺してはいけない
「してはいけない」「すべきではない」が義務の意味を指すと考えると「倫理」の概念だから証明不能。
だから、「人間は「倫理」に従わなければならない」
という仮定を設ければ、
仮定=結論なので、馬鹿馬鹿しいけど証明可能。
適当の意味を指す場合、仮定より、人間の行動は自己の価値基準
で決まる「メリット」に拠るので証明不能。(人を殺す行動を「メリット」最大化と判断した者について説明できない。)
おわり
繰り返し断っておきますが、私は殺人を応援してはいません。
なぜ人は人を殺してはいけないのか
という問いについての回答は、大体二つに分かれると思う。
・「倫理」に反するから
「人として許されない」「他人の人権を踏みにじる」など
・損をするから
「刑務所に入りたくない」「殺したくない」など
どっちも一般的価値基準を持たないものについては説明できない。「倫理」を持たない変態は死ねと言うと、マイノリティは死ねということになり、それはそれで「倫理」に反する。「倫理」の自己矛盾。(定義だけから考えると矛盾はしないが、「マイノリティは淘汰されるべきだと思いますか?」と100人に聞いたら、ほとんどの人は(うわべだけでも)NOと答えるはず。)
もし、吉良吉影みたいに殺人にセックス並の快感を覚える奴がいたら(迷惑だから死んで欲しいけど)そんな性質に生まれついてしまったという点では同情できる。
しかし、主観だけど、ほとんどの現実の殺人者は「メリット」最大化の計算ができない単なる馬鹿だと思う。
最後に断っておきますが、私は殺人を応援してはいません。
上司のHPが高い理由
2005年8月23日 思考実験言いたいこと=戦略を必要とするげーむでは、プレイヤーは限られた要因の中でのマクロ的戦略を練ることになる。
(仮定)げーむではミクロの行動の成否を確率で決定する。
【現実世界での戦略には、無限の要因が存在する。しかし、げーむでは、限定された要因しか存在しない。ゆえに、げーむではミクロの行動の成否を確率で決定する。かいしんのいちげき!ミス!とか。
例えば、一対一の刀での戦いでは、一瞬の隙をついて敵の急所を斬ったら終わる。勝者にとって、そこには必然的な側面があるのかもしれない。純粋な実力が拮抗していたとしても、戦略が勝っていた方が勝ったのかも知れない。しかし、その戦略を組み立てるための要因は無限で、複雑である。げーむでの再現は不可能だ。】
(仮定)より、げーむではプレイヤーにマクロの行動の戦略を立てさせることになる。
【たくさんのミクロの行動の確率を要因として、戦略を組み立てさせることにより、ミクロ的には偶然だがマクロ的には必然になる。例えば、RPGのぼす戦ではぼすのHPを大きくすることで最初の数ターンの運ではなく、プレイヤーの戦略で勝敗が決定することになる。】
(仮定)げーむではミクロの行動の成否を確率で決定する。
【現実世界での戦略には、無限の要因が存在する。しかし、げーむでは、限定された要因しか存在しない。ゆえに、げーむではミクロの行動の成否を確率で決定する。かいしんのいちげき!ミス!とか。
例えば、一対一の刀での戦いでは、一瞬の隙をついて敵の急所を斬ったら終わる。勝者にとって、そこには必然的な側面があるのかもしれない。純粋な実力が拮抗していたとしても、戦略が勝っていた方が勝ったのかも知れない。しかし、その戦略を組み立てるための要因は無限で、複雑である。げーむでの再現は不可能だ。】
(仮定)より、げーむではプレイヤーにマクロの行動の戦略を立てさせることになる。
【たくさんのミクロの行動の確率を要因として、戦略を組み立てさせることにより、ミクロ的には偶然だがマクロ的には必然になる。例えば、RPGのぼす戦ではぼすのHPを大きくすることで最初の数ターンの運ではなく、プレイヤーの戦略で勝敗が決定することになる。】
読む人いないので心配してないが
(うんこ日誌はブログではありません。ただの日記、メモです。
読まれることを想定していません)
万一読んだ人に電波野郎と思われそうなので補足。
(でも日常で神とか魂とかいう単語連発している人は十中八九
アレです。注意しろ!)
神は科学的でないとか考えるのは間違いだと思う。
科学にも限界がある。科学で説明できないことは
神=大いなる意思が存在するとでも解釈するしかない。
例えば世界は原子から成り立っているとか
科学で知ることができても何故原子が存在するのか
知ることはできない。神が創ったとでも思うしかないのだ。
矛盾の生じないよう理論を構築するのが科学なので
可能性が否定できない神を
科学的でないとか考えるのは間違いである。
蓋然性は低いけどね。
だからぼくは電波じゃないです。
あと、正確に言うとぼくは神を信じるというより
信じざるをえないのです。運命が存在すると考えると
全てが必然となり、生きる動機づけが
できなくなります。ゆえに運命は存在しないと考えると
前述のようになり、神を信じざるをえないのです。
(私の世界観では魂=神・・・汎神論)
だからぼくは電波じゃないです。
(うんこ日誌はブログではありません。ただの日記、メモです。
読まれることを想定していません)
万一読んだ人に電波野郎と思われそうなので補足。
(でも日常で神とか魂とかいう単語連発している人は十中八九
アレです。注意しろ!)
神は科学的でないとか考えるのは間違いだと思う。
科学にも限界がある。科学で説明できないことは
神=大いなる意思が存在するとでも解釈するしかない。
例えば世界は原子から成り立っているとか
科学で知ることができても何故原子が存在するのか
知ることはできない。神が創ったとでも思うしかないのだ。
矛盾の生じないよう理論を構築するのが科学なので
可能性が否定できない神を
科学的でないとか考えるのは間違いである。
蓋然性は低いけどね。
だからぼくは電波じゃないです。
あと、正確に言うとぼくは神を信じるというより
信じざるをえないのです。運命が存在すると考えると
全てが必然となり、生きる動機づけが
できなくなります。ゆえに運命は存在しないと考えると
前述のようになり、神を信じざるをえないのです。
(私の世界観では魂=神・・・汎神論)
だからぼくは電波じゃないです。
一般的な意味に近い魂について
仮定
・世のあらゆる物理的事象には理由が存在し、確率的なものはなく全ては必然。
・運命は存在しない。
こう考えると世の運命を変えるのは超物理的事象てことになる。
超物理的事象を魂と解釈するとつじつまが合う。
単に自分の世界観↓
思うに人の意思には物理的事象に由来するものと
超物理的事象に由来するものがあるのだろう。
物理的事象に由来するものはご飯食べたいとか日本FUCKとか
遺伝子や他者などから与えられる受動的意思で
超物理的事象に由来するものは
自分の魂が決めた能動的意思。
これが世界にイレギュラーをおこす。
なので、自分の魂が決めた意思を持つ人をぼくは尊敬する
仮定
・世のあらゆる物理的事象には理由が存在し、確率的なものはなく全ては必然。
・運命は存在しない。
こう考えると世の運命を変えるのは超物理的事象てことになる。
超物理的事象を魂と解釈するとつじつまが合う。
単に自分の世界観↓
思うに人の意思には物理的事象に由来するものと
超物理的事象に由来するものがあるのだろう。
物理的事象に由来するものはご飯食べたいとか日本FUCKとか
遺伝子や他者などから与えられる受動的意思で
超物理的事象に由来するものは
自分の魂が決めた能動的意思。
これが世界にイレギュラーをおこす。
なので、自分の魂が決めた意思を持つ人をぼくは尊敬する
前の奴への反論を考えた
・座標が違う
物理的に全く同じ人間をつくるということは原理的にありえない。二人が存在する座標が違う時点で物理的に異なる存在になってしまう。そもそも仮定に問題あり。
まあ仮定なのでそうできたらてことで
・まわりの人々が違うと考える理由の説明がない。
説明 帰納法?で
例えば、バレンタインにもらったチョコと普通に買ったチョコ
では同じものでも「違う」。
それと同じようにオリジナルとクローンも「違う」とおもわれる。
・魂の定義が不明
ここでの「魂」は「超物理的ななにか」という意味にしかなってない。
よって霊魂みたいな一般的イメージでの魂の存在の説明になっていない。タイトルに偽りあり。
僕がここで考える魂=人と人(あるいはモノ)の関係から生まれるなんらかの価値
人の価値とはある意味相対的なものだ。実体のない神も人々が信じれば確かにそれは魂が存在し、世に影響をあたえる。逆に実体のある人も他との関係がなければそれは無価値なのだ。
・座標が違う
物理的に全く同じ人間をつくるということは原理的にありえない。二人が存在する座標が違う時点で物理的に異なる存在になってしまう。そもそも仮定に問題あり。
まあ仮定なのでそうできたらてことで
・まわりの人々が違うと考える理由の説明がない。
説明 帰納法?で
例えば、バレンタインにもらったチョコと普通に買ったチョコ
では同じものでも「違う」。
それと同じようにオリジナルとクローンも「違う」とおもわれる。
・魂の定義が不明
ここでの「魂」は「超物理的ななにか」という意味にしかなってない。
よって霊魂みたいな一般的イメージでの魂の存在の説明になっていない。タイトルに偽りあり。
僕がここで考える魂=人と人(あるいはモノ)の関係から生まれるなんらかの価値
人の価値とはある意味相対的なものだ。実体のない神も人々が信じれば確かにそれは魂が存在し、世に影響をあたえる。逆に実体のある人も他との関係がなければそれは無価値なのだ。
物理的に全く同じ人間が作れたとする。
体の構造から記憶性格まで全く同じである。
一人の人間をもとにもう一人の全く同じ人間を作る。
しかし、まわりの人々はオリジナルとクローンを
「違う人」と考えるだろう。
全く同じ人間が二人いたとしても
二人は「違う」のである。
物理的に全く同じなのに「違う」ということは
物理以外、超物理的?に違うと考えられる。
この「違い」こそが魂の違いである。
・・・って甲殻機動隊を昔読んだとき思った。
体の構造から記憶性格まで全く同じである。
一人の人間をもとにもう一人の全く同じ人間を作る。
しかし、まわりの人々はオリジナルとクローンを
「違う人」と考えるだろう。
全く同じ人間が二人いたとしても
二人は「違う」のである。
物理的に全く同じなのに「違う」ということは
物理以外、超物理的?に違うと考えられる。
この「違い」こそが魂の違いである。
・・・って甲殻機動隊を昔読んだとき思った。
論理的になって嫌われないためには
2004年11月21日 思考実験昨日のつづき。
議論すると嫌われる。
でも、他人に共感しているだけはつまらない。
命題:議論して嫌われないためには
譲歩することと怒りのつぼに触れないことが大事だとおもうよ。
証明?
仮定:
人はそれぞれ大なり小なり、これは譲れない、という
絶対的価値観を持っている。
その絶対的価値観を否定されると人は怒る。
これを怒りのつぼと呼ぶことにする。
議論すると嫌われるのは、
絶対的価値観を否定されたからだ。
ということは、怒りのつぼに触れない
「どうでもいい議題」であれば議論しても
そんなに嫌われないという理屈になる。
例
この道一筋50年のおしるこ料理人に
「あなたのおしるこ調理法は効率的でない」という。
→おしるこ職人怒る(怒りのつぼ)
風呂に入ったあとにうんこをするべきかどうか議論する
→たのしい議論(どうでもいい議題)
風呂に入ったあとにうんこをするべきかどうか議論しただけで怒る人もいるけど、それは諦めましょう。
ただ、現実問題として、議論が必要な場合に、
どうでもいい議題であることは少ない。
そこで、相手の怒りを和らげるための定石が「譲歩」だ。
「確かに君の言っていることは正しい。しかし・・・」
ということで相手を全否定せず、部分的に肯定することによって
あんまり嫌われなくてすむ。
命題:議論して嫌われないためには
譲歩することと怒りのつぼに触れないことが大事だとおもうよ。
証明?終わり
絶対的価値観を捨てることは不可能だと思う。
あまりにも未知数な世の中を生きていくうえで、
人はある時点で疑うことを止め、絶対的価値観によって
世界を秩序づける必要があるからだ。
ただ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではなく、
「君の言っていることに共感は出来ない。僕はこう思う。
しかし、君の事は好きだ。」と言えるような
人間関係が素敵だと思う。
ひとつにならなくていいよ。認め合うことが出来ればさ、
て誰か言ってた。
議論すると嫌われる。
でも、他人に共感しているだけはつまらない。
命題:議論して嫌われないためには
譲歩することと怒りのつぼに触れないことが大事だとおもうよ。
証明?
仮定:
人はそれぞれ大なり小なり、これは譲れない、という
絶対的価値観を持っている。
その絶対的価値観を否定されると人は怒る。
これを怒りのつぼと呼ぶことにする。
議論すると嫌われるのは、
絶対的価値観を否定されたからだ。
ということは、怒りのつぼに触れない
「どうでもいい議題」であれば議論しても
そんなに嫌われないという理屈になる。
例
この道一筋50年のおしるこ料理人に
「あなたのおしるこ調理法は効率的でない」という。
→おしるこ職人怒る(怒りのつぼ)
風呂に入ったあとにうんこをするべきかどうか議論する
→たのしい議論(どうでもいい議題)
風呂に入ったあとにうんこをするべきかどうか議論しただけで怒る人もいるけど、それは諦めましょう。
ただ、現実問題として、議論が必要な場合に、
どうでもいい議題であることは少ない。
そこで、相手の怒りを和らげるための定石が「譲歩」だ。
「確かに君の言っていることは正しい。しかし・・・」
ということで相手を全否定せず、部分的に肯定することによって
あんまり嫌われなくてすむ。
命題:議論して嫌われないためには
譲歩することと怒りのつぼに触れないことが大事だとおもうよ。
証明?終わり
絶対的価値観を捨てることは不可能だと思う。
あまりにも未知数な世の中を生きていくうえで、
人はある時点で疑うことを止め、絶対的価値観によって
世界を秩序づける必要があるからだ。
ただ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではなく、
「君の言っていることに共感は出来ない。僕はこう思う。
しかし、君の事は好きだ。」と言えるような
人間関係が素敵だと思う。
ひとつにならなくていいよ。認め合うことが出来ればさ、
て誰か言ってた。
人間の行動を決定する2つのインセンティブ
2004年11月17日 思考実験今後の証明?のための仮定
人間の行動を決定する要因は感情と論理である。
「感情」原始的思考。人間はあんまり考えなくても行動できる。人間は遺伝子に生かされているので、遺伝子が自分に行動を促してくるのだ。それが感情。例:ご飯食べたい
「論理」高度な思考。自分にとって得であるか損であるかを総合的に考える。損得の基準は金などの「実用的価値」と哲学などの「精神的価値」の二つがある。人間は自分にとって得となると判断した行動しかとらない。例:自己満のためにホームページを作る(精神的価値)より給料の高い職場へ引き抜かれる(実用的価値)
感情と論理の効用が同程度だと判断された場合、
感情が優先される。
あきてきたのでこの辺で
人間の行動を決定する要因は感情と論理である。
「感情」原始的思考。人間はあんまり考えなくても行動できる。人間は遺伝子に生かされているので、遺伝子が自分に行動を促してくるのだ。それが感情。例:ご飯食べたい
「論理」高度な思考。自分にとって得であるか損であるかを総合的に考える。損得の基準は金などの「実用的価値」と哲学などの「精神的価値」の二つがある。人間は自分にとって得となると判断した行動しかとらない。例:自己満のためにホームページを作る(精神的価値)より給料の高い職場へ引き抜かれる(実用的価値)
感情と論理の効用が同程度だと判断された場合、
感情が優先される。
あきてきたのでこの辺で
今後の日記の「思想」で
「数学の証明っぽく自分の思ったことを正当化する」
(「証明?」と呼ぶことにする)
ときに使うかもしれない仮定をメモ。
仮定:天才とは普通の人と違った行動をとり、
しかもそれが理にかなっている人のことである。
「数学の証明っぽく自分の思ったことを正当化する」
(「証明?」と呼ぶことにする)
ときに使うかもしれない仮定をメモ。
仮定:天才とは普通の人と違った行動をとり、
しかもそれが理にかなっている人のことである。
論議が成り立たない理由
2004年11月13日 思考実験結論から言うと、現実世界の問題には
無限の「変数」=「要因」が存在し、
100%の客観が有り得ないからである。
数学的に証明されたことは絶対的に正しい。
三平方の定理が間違っているなどという人はまずいないだろう。
しかし、数学というものはこの世の中でも最も簡単な事柄を
数で表したに過ぎない。
そこで、人は問題解決に当たって無限の変数を主な変数に
限定し、ある程度単純化して考える。これが論理である。
これにより、人はある程度議論することが可能になる。
だが、この単純化の過程で人々に食い違いが生じる。
価値観の違いにより、数学で言うところの
仮定、定義、公理、変数が人によって全く別物になってしまうのだ。要するに人の主観が入るわけである。
これで世に言う文系ロジックが生まれるわけだ。
(理系の人ってなんか文系馬鹿にしてるよね!)
当たり前のことだけど、これをわかってない人が世の中多すぎだと思う。
結論:数学で言うところの仮定、定義、公理、変数が確かでないから論議は成り立たない
あと、仮に全ての変数が明らかになっても初期値鋭敏性とやらで
100%の答えが出ることはないらしい。
無限の「変数」=「要因」が存在し、
100%の客観が有り得ないからである。
数学的に証明されたことは絶対的に正しい。
三平方の定理が間違っているなどという人はまずいないだろう。
しかし、数学というものはこの世の中でも最も簡単な事柄を
数で表したに過ぎない。
そこで、人は問題解決に当たって無限の変数を主な変数に
限定し、ある程度単純化して考える。これが論理である。
これにより、人はある程度議論することが可能になる。
だが、この単純化の過程で人々に食い違いが生じる。
価値観の違いにより、数学で言うところの
仮定、定義、公理、変数が人によって全く別物になってしまうのだ。要するに人の主観が入るわけである。
これで世に言う文系ロジックが生まれるわけだ。
(理系の人ってなんか文系馬鹿にしてるよね!)
当たり前のことだけど、これをわかってない人が世の中多すぎだと思う。
結論:数学で言うところの仮定、定義、公理、変数が確かでないから論議は成り立たない
あと、仮に全ての変数が明らかになっても初期値鋭敏性とやらで
100%の答えが出ることはないらしい。
人間の五つの思考タイプ
2004年11月12日 思考実験人間は考える生き物である。
誰もが何らかの形で論理を使って思考している。
論理は「帰納」と「演繹」に大別される。
「帰納」・・・具体的事例から抽象的結論を得る論法。
ここでは特に他人の意見や客観的事実から論理を形成し、
問題を解決する思考を指す。
「演繹」・・・抽象的論理から具体的結論を得る論法。
ここでは特に自分の論理を形成し問題を解決する思考を指す。
よって人間の思考型もこれを基準に分けることが出来る。
「帰納的思考型」「演繹的思考型」
「バランス型」と言うことにする。
全ての人は「帰納」「演繹」の両方の論理を使っているが、
帰納的思考の強い人は「帰納的思考型」
演繹的思考の強い人は「演繹的思考型」
どちらの論理もバランス良く使う人は「バランス型」になる。
これだけではピンきりなので、さらに「知能指数」という基準を設ける。「知能指数」は論理的に思考する能力値である。
これにより次の五つに分けられる。
「帰納型低知能人間」
あまり考えず周囲と同じように行動し、思考する。よって考え方が一般的。そのためそこそこ魅力があり、大抵の人に好かれる。人にそこそこ好かれるのでそこそこ成功するが、あくまでもそこそこ。人間の六割はこのタイプ。
「帰納型高知能人間」
帰納的に思考するので、考え方が一般的。そのためそこそこ魅力があり、大抵の人に好かれる。魅力があって知能指数が高いので、リーダーになりやすい。なんでもそつなくこなす。しかし、独特の考えをしにくいので、天才的発想は難しい。
「演繹型低知能人間」
三つ子の魂百までを地で行くタイプ。若いころに帰納的に身に着けた論理をそのまま演繹する。考え方が一般的でなく、自己主張が強い。よって一般的に魅力は低い。ただ、若いころに身に着けた人と違った論理がたまたま理にかなっていれば大成功する可能性も僅かにある。三割くらいの人がこのタイプ。
「演繹型高知能人間」
演繹型低知能人間と違い、知能指数が高いので帰納的思考により、自分の論理を理にかなったものにすることが出来る。
そのため演繹型低知能人間より大成功する可能性は高い。
しかし、演繹が帰納より先行するので論理に必要な変数を限定して思考しがちではある。
「バランス型人間」
帰納と演繹をバランス良く使うので、知能指数は高い。天才。
滅多にいない。
あんまし根拠のない主観ですがね。
自分は確実に演繹型。
誰もが何らかの形で論理を使って思考している。
論理は「帰納」と「演繹」に大別される。
「帰納」・・・具体的事例から抽象的結論を得る論法。
ここでは特に他人の意見や客観的事実から論理を形成し、
問題を解決する思考を指す。
「演繹」・・・抽象的論理から具体的結論を得る論法。
ここでは特に自分の論理を形成し問題を解決する思考を指す。
よって人間の思考型もこれを基準に分けることが出来る。
「帰納的思考型」「演繹的思考型」
「バランス型」と言うことにする。
全ての人は「帰納」「演繹」の両方の論理を使っているが、
帰納的思考の強い人は「帰納的思考型」
演繹的思考の強い人は「演繹的思考型」
どちらの論理もバランス良く使う人は「バランス型」になる。
これだけではピンきりなので、さらに「知能指数」という基準を設ける。「知能指数」は論理的に思考する能力値である。
これにより次の五つに分けられる。
「帰納型低知能人間」
あまり考えず周囲と同じように行動し、思考する。よって考え方が一般的。そのためそこそこ魅力があり、大抵の人に好かれる。人にそこそこ好かれるのでそこそこ成功するが、あくまでもそこそこ。人間の六割はこのタイプ。
「帰納型高知能人間」
帰納的に思考するので、考え方が一般的。そのためそこそこ魅力があり、大抵の人に好かれる。魅力があって知能指数が高いので、リーダーになりやすい。なんでもそつなくこなす。しかし、独特の考えをしにくいので、天才的発想は難しい。
「演繹型低知能人間」
三つ子の魂百までを地で行くタイプ。若いころに帰納的に身に着けた論理をそのまま演繹する。考え方が一般的でなく、自己主張が強い。よって一般的に魅力は低い。ただ、若いころに身に着けた人と違った論理がたまたま理にかなっていれば大成功する可能性も僅かにある。三割くらいの人がこのタイプ。
「演繹型高知能人間」
演繹型低知能人間と違い、知能指数が高いので帰納的思考により、自分の論理を理にかなったものにすることが出来る。
そのため演繹型低知能人間より大成功する可能性は高い。
しかし、演繹が帰納より先行するので論理に必要な変数を限定して思考しがちではある。
「バランス型人間」
帰納と演繹をバランス良く使うので、知能指数は高い。天才。
滅多にいない。
あんまし根拠のない主観ですがね。
自分は確実に演繹型。
おもろいストーリーの舞台とは現実のパラレルワールドである
2004年11月10日 思考実験板垣恵介が言うには
「どんな話を描くにしろ、結局は人間を描くことになる。」
らしい。そこでこれを仮定として考察する。
仮定;ストーリーを作るということは人間を描くということである。
人間を描くということは、ストーリー上に登場する人物が人間くさくなくてはならない。
人間くさくするためには、実際にいそうな人物(いそうでいない人物も可)を描き、人物はその性格に沿って行動させる必要がある。
これを荒木比呂彦は「重力」と表現していた。漫画とはいえ、作者の自由に話を展開できるわけではなく、このような「制限」のもとにストーリーが作られるわけだ。これを私は「現実性」と呼ぶことにする。ストーリーを作る=人間を描く、ためには「現実性」を作り出す必要がある。
例えば、のびたがいきなり強くなって剛田をたおしてもたぶん興ざめだろう。しかし、ドラが安心して未来に帰れるようにがんばるという、理由=現実性があって強くなるのはまあ納得できる。
漫画にしろ映画にしろストーリーは夢の嘘話なのだが、全てが架空では幼稚でつまらない。つまり、面白いストーリーを作るためには一部分だけ架空のルールが働き、あとは現実と同じようになるパラレルワールドを描かなければならない。
「サトラレ」は上の条件に完全に当てはまる良作だと思う。
「どんな話を描くにしろ、結局は人間を描くことになる。」
らしい。そこでこれを仮定として考察する。
仮定;ストーリーを作るということは人間を描くということである。
人間を描くということは、ストーリー上に登場する人物が人間くさくなくてはならない。
人間くさくするためには、実際にいそうな人物(いそうでいない人物も可)を描き、人物はその性格に沿って行動させる必要がある。
これを荒木比呂彦は「重力」と表現していた。漫画とはいえ、作者の自由に話を展開できるわけではなく、このような「制限」のもとにストーリーが作られるわけだ。これを私は「現実性」と呼ぶことにする。ストーリーを作る=人間を描く、ためには「現実性」を作り出す必要がある。
例えば、のびたがいきなり強くなって剛田をたおしてもたぶん興ざめだろう。しかし、ドラが安心して未来に帰れるようにがんばるという、理由=現実性があって強くなるのはまあ納得できる。
漫画にしろ映画にしろストーリーは夢の嘘話なのだが、全てが架空では幼稚でつまらない。つまり、面白いストーリーを作るためには一部分だけ架空のルールが働き、あとは現実と同じようになるパラレルワールドを描かなければならない。
「サトラレ」は上の条件に完全に当てはまる良作だと思う。
ゲーム性とリアリティ
2004年10月13日 思考実験ゲーム性の向上とリアリティの追求は一般的に反比例の関係にあるが、リアリティの追求がゲーム性の向上を図る上での指針になることもある。
ゲームをつくる上での最大の目的はゲーム性の向上、つまり、面白くすることだ。ゲームの中でつまらない現実を体験しても何も面白くない。よって、リアリティの追求はゲーム性の向上とつながらないので、好ましくない。
例えば、リアル志向とかで現実と同じように死んだキャラクタは二度と生き返らないようにしても、どうせほとんどのプレイヤはリセットする。
しかし、リアリティの追求がゲーム性の向上につながることもある。
例えば、現実の世界では時間が流れているので、ゲーム中でもアクティブタイムにしてみようというのは、ゲーム性の向上につながっている。
要するに、ゲームは面白ければよかろうなので、ゲームを作るうえでリアリティを追求することが最大の目的となってはならない。
ゲームをつくる上での最大の目的はゲーム性の向上、つまり、面白くすることだ。ゲームの中でつまらない現実を体験しても何も面白くない。よって、リアリティの追求はゲーム性の向上とつながらないので、好ましくない。
例えば、リアル志向とかで現実と同じように死んだキャラクタは二度と生き返らないようにしても、どうせほとんどのプレイヤはリセットする。
しかし、リアリティの追求がゲーム性の向上につながることもある。
例えば、現実の世界では時間が流れているので、ゲーム中でもアクティブタイムにしてみようというのは、ゲーム性の向上につながっている。
要するに、ゲームは面白ければよかろうなので、ゲームを作るうえでリアリティを追求することが最大の目的となってはならない。